星野修の想い・志

月島会!!

おはようございます♪

Vol.3024

いつも読んでいただきありがとうございます!!

 

昨日の午前中に、東名高速を走らせ沼津から東京へ帰っていきました。

 

はやて(豆しば)も無事に薬を飲んでよくなりました。

 

夜は、月島の近所の焼き鳥屋さんへ・・・

 

長女と妻と3人で懇親会。。

 

焼き鳥を食べながら、長女が

 

「結婚は・・・」

 

「子どもは・・・」

 

「どこに住む・・」

 

将来について語ってました。

 

完全に妄想族。。

 

でした。

 

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それではメルマガいっちゃいます♪

 

幸之助論  ジョン・P・コッター著

PHPは対米宣伝機関か

 

 

 

 

1961年、松下幸之助は66歳で松下電器の会長に就任し、、社長には娘婿の正治が任命された。

 

 

1960年代半ばに短期間だけ現場に復帰したものの、1973年に高橋荒太郎が会長に指名されると相談役に退き、幸之助は会社の日常業務から遠のいて言った。

 

 

輝かしい成功を収めたら、その職業がなんであれ、人生のどの時期であれ、次はどうするのかという問題が持ち上がるものだ。

 

 

さらに同じことを続けるのか・・・

 

 

ある年齢が過ぎると、常に優秀な成績を上げることは不可能になる。

 

 

それはスポーツにおいては当たり前のことだが、起業家であっても次世代へ権限を委譲しないと、組織の利益が維持できない。

 

 

しかし、さらに同じことを続けるのが答え出ないならば、いったい何をすべきなのか。

 

 

過去の栄光にしたり続けるのか?

 

 

それともゴルフ三昧を続けるのか?

 

 

晩年の幸之助は、世間にある退職後の活動で時間を費やすことはほとんどなかった。

 

 

ゴルフはしなかった。

 

 

交響曲に耳を傾けるとか長い休暇を取ることもなかった。

 

 

その代わり、数々の本を書き、さまざまなプロジェクトに資金を提供し、PHP研究所とともに働いた。

 

 

幸之助の手によってPHP研究所が正式に発足したのは、1946年の11月のことだった。

 

 

この機関の設立目的は、人間の本質を探究し、日本が二度と第二次世界大戦のような自殺行為に向かわないようにするための一助となすことだった。

 

 

この基本構想はその名前自体に含まれている。

 

 

すなわちPHPとは、「繁栄によって平和と幸福を」と言う意味である。

 

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人には、必ず仕事の終わりがあります。

 

松下電器を退職後、幸之助さんはPHPを設立し、たくさんの書物を次世代に残していきました。

 

最後は、人間の本質の追求。。

 

松下幸之助さんの哲学を残していったのです。

 

 

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星野 修