はなの舞さんでランチ♪
おはようございます♪
Vol.2909
いつも読んでいただきありがとうございます!!
昨日は、柔道整復師連合会事務局の眞有さんが平井の本社に来ていただき・・・
一緒にお昼、平井はなの舞さんでランチをしました。
今後の業界の情報交換。
たくさん意見交換をさせていただきました。
柔道整復師が今後、益々厳しくなっていきます。
そこでしっかりと役割を感じないといけませんね~
弊社も業界にいい影響を与える会社になっていきたいと思います♪
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それではメルマガいっちゃいます♪
嘉納治五郎氏 ビジネスに活かす一流選手の言葉
人に勝つより、自分に勝て
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嘉納治五郎は1860年に摂津の御影村(現在の神戸市灘区)で生まれた。
1871年に父が明治政府に招へいされ、嘉納も一緒に上京する。
14歳で育英義塾に入塾したが、当時の嘉納は小兵で弱弱しく、他の塾生たちにいじめられたという。
力が弱い者が強い者を倒す方法はないだろうか?
そう考えた嘉納がたどり着いたのが柔術だった。
両親に反対されながらも天神真楊流柔術に入門したのである。
1875年に東京大学の前身、開成学校に入学した嘉納は、勉学のかたわら柔術の腕を磨き、天神真楊流柔術のほか起倒流も会得。
このふたつの流派から「柔道」をあみだした。
1882年に卒業した嘉納は、学習院で英語教師を務めながら、東京・下谷の永昌寺の書院を借り受け、講道館という場所を開いた。
そして1882年には九段富士見町に道場を開き、本格的に講道館柔道の名乗りをあげたのである。
その後、外国視察に派遣された嘉納は、五高校長、文部省参事官、一高校長などを経て1896年に東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長に就任した。
同師範学校で、嘉納は体育科を新設。
体育教師の育成を積極的にすすめたのだった。
嘉納は柔道家というだけではなく、日本を国際スポーツの場に導いたことでも有名だ。
1909年にはアジア初のIOC委員に就任。
1912年に開催されたストックホルムオリンピック(第五回)では団長として二名の選手と共に初参加を果たした。
そして、1936年に開催されたIOC総会では第十二回オリンピック(1940年)の東京招致に成功するという成果をあげた。
しかし、日中戦争激化の為、招致は白紙となり、残念ながら幻の東京オリンピックになったのである。
1938年にカイロで開催されたIOC総会からの帰途、氷川丸船上で肺炎のため急死。享年77歳だった。
嘉納が柔術を始めたのは、人に勝つためだった。
だが、苦しい練習が必要だった。
その練習に耐えるには「もうやめたい」「これで十分だろう」という誘惑に勝つ必要がある。
これが嘉納の指摘する「自分に勝つ」ということなのである。
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人に勝つより、自分に勝つ!
深いです。
結局は、スポーツでも仕事でも自分との戦いです。
もうこれぐらいでいいと思うのは自分だからです。
自分との戦いに勝つためには・・・
日々の習慣が大切だな。。
と思っています。
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星野 修